ゴルフにおける、美しく神聖にして永遠なるもの
越谷ゴルフです。
これまでの考察では、ゴルフにおける真理の本当の姿は
学問の形に求められているのではないかという可能性を
論じてきた。
これは言い換えると、
真理は概念の領域にその存在の場がある、
と主張することでもある。
しかしこれは、ゴルフは概念的なものではなく、
実際にボールを打ち、結果が残るものである、ということと、
矛盾する考えでもあることは十分承知できる。
この矛盾について説明しておくことは、
現在一般的に広まり、流行しているゴルフ論やゴルフ哲学を
もう一段上の領域に引き上げるのに意味のないことではない、
と思われる。
一般的に教義されているゴルフ論やゴルフ哲学によると、
真理とは、直感とか絶対なるものの直接知、というか、
それは宗教というか、存在・・・宗教的な表現をするならば、
神の愛の中心にある存在ではなく、ただ存在そのもの
とでもいうものである。
いや、ゴルフとはゴルフをすること、
つまり現実のゴルフとしてしか存在しないものであるのだが、
だとすると、それをゴルフ哲学敵に表現してみるならば、
概念としての形式とは反対のものが要求されることになる。
絶対的なものは概念によって捉えられるものではなく、
感じられ、直感されるものであり、
絶対的なものの概念ではなく、絶対的なものの感情や直感、
その感情や直感というものを言葉によって明らかに
されなければならない、ということになる。
そのような要求があらわれる理由を、考えてみるならば、
それはゴルフに限らず、人間の活動や存在一般的な広い状況
とのつながりのもとに捉え、ゴルフについて、人間精神が到達した、
現在の段階について、把握しておくことは意義がある。
神とはカタチとして現実に存在するものではなくて概念的なもの、
しかしゴルフは実際に行うもの。
精神は、思考の場の営みで神と一体化できることだとすると、
現実のゴルフとは、現実のものとしての存在でありながら、
その神の次元を超えているということが明らかと言える。
ゴルフとは、素朴な信仰の次元を超え、
ゴルフにおける神とは、内面にも外界にも広く存在するという
確信と満足の次元を超えている、
というわけだ。
ゴルフの精神は、神なき自己反省という反対の領域に達する
のみならず、その領域の次元を超えている。
ゴルフの精神の本質ともいえる、神との共同プレー、
それをを喪失しただけでなく、
その喪失に伴う自らの内容の限界の意識、
神との共同プレー喪失後のカスのような現実から目を背け、
己の境遇のひどさを認める。。。
その非を鳴らす精神が今求められいるというわけだ。
それは己の現在についての知ではなく、
かつて神とともに一体化し共同プレーされて頃に戻れるのか、
それを再現させることが求められているのである。
ゴルフにおける、美しく神聖にして永遠なるもの・・・
ここではその存在としての神との共同プレーについて
少し述べておくことと致します。
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