越谷ゴルフです。
ゴルフをしていることの喜び、感激、
夢中になり、得意顔をし、そして落胆し・・・
それをここではゴルフの神に対する宗教的満足と、
敢えて表現しておくが、そうした感激と混迷をもって、
ゴルフは理屈ではない、と考えるわけにはいかない。
興奮状態、トランス状態をもって高尚とする、
預言者風のおしゃべりは、それこそ
自分こそものごとの中心で深みにふれているという自惚れ。
それは、明晰な世界に軽蔑のまなざしを向け、
概念や必然性にも、日常のゴルフ活動を住拠とする反省にも
あえて近づこうとしない。
が、空虚な広がりがあるように、空虚な深みもあるものだし、
日常的に多面的な展開をしながらそれをまとめる力のない
散漫な、その日その日によって違うゴルフがあるように、
広がりのない純粋な力にとどまるがゆえに、
何の深みもない、無内容な集中力というものもある。
精神の力は外への発現によりその大きさは測られる。
しかしその深さも、精一杯身を投げ出して外への広がりへの
力を持つ限りでの深さでしかない。
同時にこの概念なき神の知が、これぞゴルフ、
わかった!自分こそが絶対存在と一体化し、
真実で神聖なゴルフをおこなっている、と言い張るならば、
そこに隠された事の真相は、知が神と一体化しているどころか
限度やけじめを軽視したがためにむしろ、
行き当たりばったりの内容や、自分勝手な思い込みに、
そのまま甘んじている結果にしかなっていない。
ということである。
宗教的な言い方を続けさせていただくが、
神をめぐる放縦な興奮に身をまかせたゴルファーは、
自己意識に覆いをかけ、知性を放棄していながら、
それによって神の世界に招かれ、
夢の中で神の叡智に預かるものだと思い込んでいる。
彼らが夢を見ている、幻想の中で身ごもり、生み出すのは、
それもまた幻想。はかない夢に過ぎない。
これからの時代、ゴルフが人間の活動である限り、
ゴルフにおいても、精神は、
これまで当たり前とされている現実と観念世界に別れを告げ
いうなれば現在のゴルフ論やゴルフ哲学が抱えている矛盾
それを過去の淵に沈め、変革の作業に取り掛かることに
なるだろう。
精神は常に前進活動を行っているがそれはちょうど、
長く静かな栄養補給により大きく成長した胎児が、
この世に生をうけ新生児として生まれ、最初の一息をする
質的な飛躍に似て、
ゴルフにおける精神のあり方はゆっくりと静かに新しい形態に
成熟している最中とも言える。
以前のゴルフ理論やゴルフ哲学は少しずつ壊れ、
動揺に直面している状況は非常に多い。
その動揺は兆候として示唆されているにすぎないが、
その現体制に無分別や退屈の要素が紛れ込み、
わけのわからない感覚が漠然と広がりを見せるとき、
その違和感が、実は別の世界の到来を告げる前兆。
全体の概観を変えることない緩慢な破壊作用が
あるとき様相を一変させ、稲妻のように、
新しいゴルフの世界の像が打ち立てられるのかもしれない。
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