越谷ゴルフです。
神との一体化されたゴルフ・・・
それは閉ざされた神の世界の扉を押し開くことでもなく、
その世界への自覚をもたらすことでもなく、
特殊な思考は全て捨て去り、概念上の区別は押しつぶし、
絶対存在の感情を打ち立てること。。。
洞察を深めるでもなく、宗教心を高めること。
ということになるのだが、前回述べた「美しく神聖なもの」や、
宗教や、愛というものは、しかしいうなれば、
魚をおびき寄せるためのえさに過ぎないと言えなくもない。
概念ではなく、法悦が、つまり絶対感情が、
冷静に進む事柄の必然ではなくたぎりたつ霊感が、
こうしたゴルフにおける神の世界の豊かさを支え、
拡大していく力になるというのである。
・・・
こうした要求に応えるにはまず、
感覚的で卑俗的でとりとめのないゴルフをする者を、
その境遇から引きずり出し、まず天上の神々、
あるいは星等へ目を向けさせるために、
力のこもった、性急で落ち着きのない努力
それがまず行われることになる。
嘆き悲しみのゴルフを行う者に、
天界に広がる多種多様な思考と形象に満たされた、
あるとあらゆるものからの意味の光線を放ち、
それによって地上と天上を結びつけるというべきか、
ゴルファーの視線を地上にとどまらせるだけでなく、
天上へと向かわせ、神々しい世界を垣間見させる。
彼岸の現在ともいうべきもの・・・
精神のまなざしはそうして地上の現実へと向けさせる。
此岸の世界に広がるあいまいで
混乱して矛盾だらけの状態のうちに、
天上界でしか得られないような明晰さを注ぎ込み、
目の前の現実のものに注意を向ける・・・。
それは「経験」であり、
それに価値を認めさせるには少々時間が必要となる。
それにしても、
今求められているゴルフ論やゴルフ哲学は、
それと反対の方向であり、人々の関心が、
あまりにも地上に深く根をおろしているため、
それを天上に向けさせるには、並大抵の苦労ではない。
精神のまずしさは目を覆うばかりで、それは、
砂漠の放浪者が一口の水を求めるように、元気回復のため、
ほんの少しでも神の感情を得られさえすればと、
必死になっている。
そんなものでゴルフから満足が得られるところに、
かえって失われているものの大きさがあらわれると
いうものである。
・・・
それにつけても、なにかをもらえれば満足し、
与えることには出し惜しみするという態度ばかりが
どうしても目に付くのである。
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