About 2009年11月

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2009年11月

2009年11月24日

そもそもゴルフ論というものは・・・

越谷ゴルフです。

世の中ではさまざまな人がさまざまなゴルフ論を唱え、
ゴルフ論というものはゴルファーの数だけ存在します。

大まかに言うと、メンタル面から入るもの、
それから知性面から入るもの、そしてフィジカル面から入るもの。
それぞれのアプローチから真理を追究しようと
試みられているのですが、その姿はまさに哲学・・・。

ゴルフという同じ対象を扱っているにもかかわらず、
それぞれのゴルフ論において、論者の狙いとする目的がどこにあり、
また、同時代やそれ以前のゴルフ論にどういう影響を受け、
どう新境地を開拓したかを整理してみることは、有効なこと

かもしれないし、もしかするとゴルフ論の性質上、
不適切なもので不都合なものかもしれない。

各論者が、ゴルフ論の変遷についてその歴史に照らし合わせて
おのれの傾向や立場、一般的内容と結論を提示したり、
多くの人が口にする真理論や真理説を結び合わせたり、
そういうことをすることも多いが、

それを哲学的見地からすると、
そんなやり方でもって絶対真理の表現であると考えるには
非常に安易すぎるのである。

それでいて一方、哲学的考察を行うとすれば、
特殊な事例を内に含む一般論として語られるものだから、
目的や最終結論のうちに事柄そのものが完全無欠な形で
表現されるはずで、途中の展開過程はあまり重要でない、

といった幻想に陥りやすいのもまた現実である。

・・・

例えばゴルフを哲学ではなく、解剖学からアプローチした場合は、
体の各部分を生命なきものとして知っただけでは現実のゴルフ
その内容である事柄を手に入れることは決してできない。

さらに進んでそれぞれの特殊な在り方を探求するある、
ということは誰でもすぐに考えることである。

さらにいえば、それはゴルフを学問として、あるいは理論として、
研究するといったことに値しない。

そういう知識の寄せ集めの場合には、
目的などをめぐる一般的な理論と、
神経、筋肉といった内容そのものをめぐる、
概念なき側物的な議論とが区別されていないからである。

・・・

ところが、解剖学ではなく、哲学的に考えるとなると、
一般論と各論とのあいだに矛盾が生じるもので、
矛盾があるのがゴルフだと逃げてしまったゴルフ論も多いのだが、
それでは真理を捉えていないことを、自ら証明しているようなもの
となってしまっているのもまた現実である・・・。


となると、あるゴルフ論が同じゴルフを語った他のゴルフ論と、
どういう関係にあるのか、といった議論も、本来の真理追究とは
異質の関心を呼び起こすことになり、肝要な、真理の認識をかえって
くもらせてしまうことにもなりかねない。

真と偽とは対立するものだと固定されてしまうと、
あるゴルフ論については賛成か反対しかなくなります。
そのゴルフ論の体系についても真偽をはっきりさせることにしか
意義を見出せなくなってしまう・・・。

一般的なゴルファーは、
あるゴルフ理論体系とまたある違うゴルフ理論体系を知ったとき、
それらの違いを、真理の発展段階の違いとして捉えることはなく、
違うものはどちらか、一方にしか真理はないものと考えるもの。

言い換えるなら、つぼみがなくなって花となって開いたとき、
つぼみは花によって反駁される、というようなもので、

同様に、花が実になればなれば、花は偽りの存在ということになり、
植物の真理は花から実に移ったことになる。

それぞれの存在は互いに異なるだけでなく、
両立しえないものとして互いに排除しあう関係にあるということ。

しかしそれらを一連の流れとして考えるならば、
つぼみ、花、実、といった三つの存在は、
有機的に統一された一つの存在、構成要素とみなされ、
互いが対立するどころか、どれが不要ということもなく、
みっつそろってはじめて全体の植物というものが説明される。

・・・

ゴルフにおける、あるいはゴルフ論におけるさまざまな矛盾・・・

それはもしかして、
ゴルフ上達の過程で抱える矛盾かもしれないし、
当のゴルファー達が、あるいは論者たちが、
ただ単に、矛盾が全体の中でどの位置にあるのか
位置づけられていないだけなのかもしれない。

この部分、もう少し整理してみようと思います。


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越谷市大間野町1-155
http://www.koshigayagolf.com

2009年11月25日

ゴルフ論体系どうしが矛盾する時

越谷ゴルフです。

ゴルフ論体系どうしが矛盾する時、多くの論者は、
その矛盾を全体の中に位置づけていないことが通例である。

したがって、
はじめてその矛盾に直面したゴルフ初心者は混乱するのである。

ある程度ゴルフを求道し、自分なりに矛盾を解決してきた者には、
その矛盾を、正反対の表現ではあるが、全く同じ事を述べている
ことに気づくかもしれない。

しかし一般には、その矛盾を概観するものは無責任であり、
矛盾する一方を真とし一方を偽と決め込み、双方を自由に行き来き
させることはしないし、対立して衝突する形のどちらか側に決め込み
どちらにも、本質にせまるための必要不可欠な要素があることを認識
できないでいるのである。

とはいえ、体系の真偽をはっきりさせなければいけない場合もあり、
その要求を満たすことこそ肝心であると思う人もいるかもしれない。

しかし、核心はなによりその目的と結論のうちにかたられるはずだし、
目的と結論は同じ問題を扱った同時代の主張との違いのうちに、
何よりも明確に認識することが出来る。

例をあげるなら、例えば富士山の山頂をめざして歩く場合、
南から登る者にとっては、北へ向かって歩くことが真である。
しかし北側から登る者にとっては、南へ向かうことが真である。

この場合、北へ歩くという行為と、南へ歩くという行為は、
全くもって両者は矛盾していることになっている。
しかしだからといって、双方が双方とも偽ではない。
というわけだ。

この認識は極めて重要。

しかし、そうした認識は単なるはじまりでもあることに気づかず
そこで満足してしてしまう論者も多いことに注意、あるいは自戒
したいものでもある。

現実の認識がすべてであると満足してしまうことは、
それは事柄そのものを遠まわしに回避し、
事柄に熱心に取り組むふりをしていながら、その実、
取り組みを怠っているという詐術に手を染めていることに等しい。

なぜなら、事柄は、
目的のうちではなく、展開過程に汲み尽くされるものであり、
いうなれば結論のみが全てではなく、
結論とその生成過程を合わせたものが、
現実の全体なのだから、

目的それ自体は生命のない一般観念であり、
一方でまた目的を目指す衝動もまた、
現実性を欠いた単なる意欲に過ぎず、

裸の結論としては、衝動、言い換えれば生命を
抜き取られた屍に過ぎないというものである。


・・・

同様に、他のゴルフ論との違いを示すと言う行為も、
実は事柄そのものにかかわっているのではなく、
事柄の境界線上あるいは事柄の外側に身を置いている
ことに近いとも言える。

「違い」とは、事柄の外で起きることあるいは
事柄ではないものをさす言葉であるから、これも、
陥りやすい自己満足でもある。

こんな話を聞くと特にそう思うのです。

同じ練習場で違うインストラクターからレッスンを受けたら、
ゴルフを教えてくれたのではなく、
もう一人のインストラクターの悪口で終始した・・・

そういうゴルフ論、ゴルフ哲学を聞かされる者側にとっては、
まったくとってつまらないのである。
それはなぜなら、そこに内容はなく、事柄の外側にいるわけだから
致し方ないのである。

ではなぜ、そんな状況に陥りやすいのか。

それは、あるゴルフ論体系が他のゴルフ論体系と違うということの、
真偽を語ったり評価するという行為は、そんなに難しくないから。

その行為は、物事に取り組むということよりも、
つねに事柄の外側に向かっていくことであり、
あるいはその知は、
事柄の中にとどまって没頭するというものでもなく、
常になにか別のものにも手を伸ばすというものでもなく、
事柄そのものに身をゆだねる行為でもなく、
自分の枠の範囲内にとどまりつづけていることでもある。

内容と実質について評価するのは易しく、
そうではなく、その内容と実質がどんなものかを捉えることは
難しいものである。

そしてここで述べたのは、もっと難しいのは、
その二つを統一すること。

つまり、内容と実質を表現することである。

・・・
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2009年11月27日

ゴルフから得ようとしているもの

越谷ゴルフです。

社会に出て、ゴルフをまだやった事がない者が
初めてゴルフを始めるということは、
日常生活を抜け出して、教養の分野に一歩踏み出した
そんな感覚を覚えるのは長くゴルフをやってきた者にも
うすうすわかることであろう。

ゴルフのもつイメージには、そういう魅力が溢れている。

そして、はじめてゴルフクラブを握ってボールに向かうとき、
今までその人がゴルフ以外から一般的に自分が経験してきた
常識や、原則といった視点からゴルフに立ち向かう。

また、一度ボールを打ってみたら次に、
それらゴルフを始める以前に習得してきたもの
それを超えた新たな知識、思考を求める。
そしてそれは具体的で、内容豊かで、明晰であることを期待する。

まだ自分の知らない、未知の世界が大きく広がっているのに
気づかされるのである。だからそこに憧れるとも言えるし、
だから教養の分野だとここでは言う。

教養がはじまったばかりの段階では、
充実した日常生活から一歩踏み込んで教養、
つまりゴルフに真剣に取り組むのであるが、

その真剣な取り組みが長く続く、としたらそれを言い換えるなら、
新たな経験を積み重ね、事柄の深層にある概念と、
真剣に取り組んでいるというわけで、

その段階の水準で得た知識、評価、あるいは感動というものは、
日常生活にもどって日常会話の中で披瀝されるものでもある。

・・・

さて、もし真理が明確な形をもって存在されるとしたら、
その形態は体系的で、学問のようなものでしかありえない。

だとすると、
ゴルフ論、ゴルフ哲学を教義し生業とする者の使命は、
その理論あるいは哲学は、学問の形式に近づけることにある
ということを認識しておかなければならない。

哲学の原義は、「知への愛」
しかしただ知に憧れるだけではなく、本物の知に近づくべく、
真剣に取り組もうという者がいるならば、その期待に、
応えねばならない。ゴルフ論を語るものにはその責任がある。

知が学問の形をとるという内向的必然性は、知の性質であり、
その事を十分に説明するとしたら、哲学を叙述してみせるほか
方法はない、というわけだ。

しかし、それとは別に、「いわゆるカタチから入る」という方法、
すなわち外的な必然性からのアプローチというのも一般的で、
むしろこちらのほうが、内向的必然性より多いのも現実。

しかしそれにしても、たとえそれが外的なものであっても、
単なる個人の思いつきや気まぐれ、あるいは個人的なきっかけ
といった意味ではなく、一般的な意味で捉えるとやはり、
それら単なる思いつきや気まぐれをどう体系づけるか
それが重要になり、そこまで高めなければ、
例えばゴルフスイングにおける重要事項の一つである「再現性」
というものはなく、やはり、

ゴルフから得ようとしているものを得られるように、
一般の人を導くとするならば、学問にまで高める必然性は
明白であり、

また明白にするということは、
同時にその目的を実行することにもなるのである。


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