越谷ゴルフです。
ゴルフの練習をしている時、
特にスイングづくりをしている過程を仰々しく述べるならば、
現実のゴルフの実体を、真理に昇華させる過程
というわけだが、
例えば自分の頭の中に、
イメージとしてスイングの理想があるとする。
その理想はもしかして
悪く言えば単なる思い付き、かもしれないし、
よく言えば、知的直感、かもしれないし、
あるいは、どこからか仕入れてきた、
他人からの受け売りのイメージ、
かもしれない。
しかし、この段階では、
それが仮に結果として真理であったとしても、
真理と呼ぶにはふさわしくないことは想像に難くない。
「結果として真理」
という表現をここでは使ったが、
真理とは、統一された唯一の絶対存在であり、
主体である現実のゴルフと理想である真実のゴルフは
たいていの場合、出発点では互いに相反するもので、
理想と現実にはギャップがあるものなのだが、
真理に昇華されるということは、
この互いに相反する分裂された状態のものが、
統一されるということである。
この過程をここでは、
螺旋階段を登っていくと、
一周したときに同じ場所には立っているようにおもえるが、
実は一段上の段階に立っている、と表現しておく。
・・・
そうした現実のゴルフの実体を、真理に昇華させる過程を経て、
現実として真理を手にした者だけがその意味がわかる、
もう一つの言葉がある。
それは、
「結果として真理」ということはつまり
「結果として現実」
あるいは他の表現をすることもできるだろう。
「形は本質」あるいは「本質は形」
というニュアンスも、
この過程を経たものであれば納得しうる事。
真実は実は単純なものかもしれない。
結果として。。。
未だ相反するものが統一される過程が踏まれていないものは、
たとえそれが文の形で表すと真実と同じであったとしても、
それを真実ということはできない。
いうなれば、真実として扱うのではなく、
一般論として、処するべきものなのだろう。
その落し穴に嵌らないためにあくまで押さえておきたい点は、
「主体」としての現実のゴルフというポジションを、
常に忘れないこと。
この自覚こそが、実は真実への過程なのだろう。
それはちょうど、
生まれたばかりの胎児はまだ人間としての自覚はないが、
理性ある大人になったときは人間としての自覚がある。
といったようなものなのだろう。
理性ある大人になるまでには、
さまざまな葛藤があるものである。
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