越谷ゴルフです。
さて、例えばゴルフスイングでハッという気づきがあり
新しいスイング概念が登場したような場合、
その概念は、全体はいまだ単純なカタチをとる、
一般的な土台としてしか存在しない。
頭の中のイメージとしてなんとなくあるのだが、
意識にとってはこれまで体に馴染んでいる
今までのスイングが体を支配していて、
そのように体は動く。
だから、新しく登場した形態には、
内容の展開や分化が浅く、
まだまだ明確な輪郭をもってお互いを区別したり、
スイング全体を秩序立てて展開することができない。
しかし、この展開なくしては、
その新しいスイング概念が広く理論として
世界に理解されることはなく、
この、展開前の段階は、
いわゆる、わかる人にはわかるだけの、
少数の個人にだけ秘伝される、感覚的な財産である。
秘伝だというのは、そのスイング理論がさしあたり、
内面的な概念の中にしか存在しないからであり、
少数の個人に、というのは、その理論に広がりがなく、
その理論が個人的なものとなってしまうからである。
完全に明確な内容を備えたものだけが、
本来なら同時にゴルフスイング理論といわれるものであり、
本当の意味で概念的なものであり、
学習されて万人の所有物となる。
学問としての理論とは、
万人向きに、理解可能な形を備えたとき、
誰でもその道を歩めるようになったとき、
はじめて確立されるものである。
理解されたものとは、よくわかっているもののことであり、
理解できると、さらに理性的な知に向かおうとするのは、
その理論あるいは学問に足を踏み入れた者の、
当然の要求である。
理解とは、純粋に自我の活動であり、
自我の壁に隔てられ外側にある表面意識、学問的知へ、
自我の壁の内側にある潜在意識、言い換えると
感覚や感情や無意識上の記憶といった非学問的意識が
向かうことである。
それにしても始まったばかりの理論や学問、
いわゆる秘伝の段階にあるものは、
細部まで仕上げられてもいなければ
完璧な形式を獲得してもいないので、
そのことが論者によっては非難の対象にする部分である。
しかし、その非難は必ずしも核心を突くものではなく、
反対に非難された側もその理論の細部の展開を要求されても
拒否し認めようとしない、ということも多々あり
おそらくそれは間違っている。
ここに見られる対立は、
一方の側は材料の豊富さとわかりやすさを自慢し、
もう一方はそのわかりやすさを軽蔑したうえで
理性と神性(神秘性)がそのまま現れていることを自慢する。
・・・
秘伝とは、事柄の根拠を示しえない点で、
従来の一般論に敗北し、沈黙させられることが多い。
しかしもしその秘伝が真実であるならば、
その秘伝は沈黙により生き残っていけるものでもあり、
あるいはたえず期待を持たせながらも学問的な理論にまで
展開させられないがゆえに人々から忘れ去られていくものでもある。
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