越谷ゴルフです。
ゴルフ論体系どうしが矛盾する時、多くの論者は、
その矛盾を全体の中に位置づけていないことが通例である。
したがって、
はじめてその矛盾に直面したゴルフ初心者は混乱するのである。
ある程度ゴルフを求道し、自分なりに矛盾を解決してきた者には、
その矛盾を、正反対の表現ではあるが、全く同じ事を述べている
ことに気づくかもしれない。
しかし一般には、その矛盾を概観するものは無責任であり、
矛盾する一方を真とし一方を偽と決め込み、双方を自由に行き来き
させることはしないし、対立して衝突する形のどちらか側に決め込み
どちらにも、本質にせまるための必要不可欠な要素があることを認識
できないでいるのである。
とはいえ、体系の真偽をはっきりさせなければいけない場合もあり、
その要求を満たすことこそ肝心であると思う人もいるかもしれない。
しかし、核心はなによりその目的と結論のうちにかたられるはずだし、
目的と結論は同じ問題を扱った同時代の主張との違いのうちに、
何よりも明確に認識することが出来る。
例をあげるなら、例えば富士山の山頂をめざして歩く場合、
南から登る者にとっては、北へ向かって歩くことが真である。
しかし北側から登る者にとっては、南へ向かうことが真である。
この場合、北へ歩くという行為と、南へ歩くという行為は、
全くもって両者は矛盾していることになっている。
しかしだからといって、双方が双方とも偽ではない。
というわけだ。
この認識は極めて重要。
しかし、そうした認識は単なるはじまりでもあることに気づかず
そこで満足してしてしまう論者も多いことに注意、あるいは自戒
したいものでもある。
現実の認識がすべてであると満足してしまうことは、
それは事柄そのものを遠まわしに回避し、
事柄に熱心に取り組むふりをしていながら、その実、
取り組みを怠っているという詐術に手を染めていることに等しい。
なぜなら、事柄は、
目的のうちではなく、展開過程に汲み尽くされるものであり、
いうなれば結論のみが全てではなく、
結論とその生成過程を合わせたものが、
現実の全体なのだから、
目的それ自体は生命のない一般観念であり、
一方でまた目的を目指す衝動もまた、
現実性を欠いた単なる意欲に過ぎず、
裸の結論としては、衝動、言い換えれば生命を
抜き取られた屍に過ぎないというものである。
・・・
同様に、他のゴルフ論との違いを示すと言う行為も、
実は事柄そのものにかかわっているのではなく、
事柄の境界線上あるいは事柄の外側に身を置いている
ことに近いとも言える。
「違い」とは、事柄の外で起きることあるいは
事柄ではないものをさす言葉であるから、これも、
陥りやすい自己満足でもある。
こんな話を聞くと特にそう思うのです。
同じ練習場で違うインストラクターからレッスンを受けたら、
ゴルフを教えてくれたのではなく、
もう一人のインストラクターの悪口で終始した・・・
そういうゴルフ論、ゴルフ哲学を聞かされる者側にとっては、
まったくとってつまらないのである。
それはなぜなら、そこに内容はなく、事柄の外側にいるわけだから
致し方ないのである。
ではなぜ、そんな状況に陥りやすいのか。
それは、あるゴルフ論体系が他のゴルフ論体系と違うということの、
真偽を語ったり評価するという行為は、そんなに難しくないから。
その行為は、物事に取り組むということよりも、
つねに事柄の外側に向かっていくことであり、
あるいはその知は、
事柄の中にとどまって没頭するというものでもなく、
常になにか別のものにも手を伸ばすというものでもなく、
事柄そのものに身をゆだねる行為でもなく、
自分の枠の範囲内にとどまりつづけていることでもある。
内容と実質について評価するのは易しく、
そうではなく、その内容と実質がどんなものかを捉えることは
難しいものである。
そしてここで述べたのは、もっと難しいのは、
その二つを統一すること。
つまり、内容と実質を表現することである。
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