About ゴルフ哲学論

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ゴルフ哲学論

2009年11月24日

そもそもゴルフ論というものは・・・

越谷ゴルフです。

世の中ではさまざまな人がさまざまなゴルフ論を唱え、
ゴルフ論というものはゴルファーの数だけ存在します。

大まかに言うと、メンタル面から入るもの、
それから知性面から入るもの、そしてフィジカル面から入るもの。
それぞれのアプローチから真理を追究しようと
試みられているのですが、その姿はまさに哲学・・・。

ゴルフという同じ対象を扱っているにもかかわらず、
それぞれのゴルフ論において、論者の狙いとする目的がどこにあり、
また、同時代やそれ以前のゴルフ論にどういう影響を受け、
どう新境地を開拓したかを整理してみることは、有効なこと

かもしれないし、もしかするとゴルフ論の性質上、
不適切なもので不都合なものかもしれない。

各論者が、ゴルフ論の変遷についてその歴史に照らし合わせて
おのれの傾向や立場、一般的内容と結論を提示したり、
多くの人が口にする真理論や真理説を結び合わせたり、
そういうことをすることも多いが、

それを哲学的見地からすると、
そんなやり方でもって絶対真理の表現であると考えるには
非常に安易すぎるのである。

それでいて一方、哲学的考察を行うとすれば、
特殊な事例を内に含む一般論として語られるものだから、
目的や最終結論のうちに事柄そのものが完全無欠な形で
表現されるはずで、途中の展開過程はあまり重要でない、

といった幻想に陥りやすいのもまた現実である。

・・・

例えばゴルフを哲学ではなく、解剖学からアプローチした場合は、
体の各部分を生命なきものとして知っただけでは現実のゴルフ
その内容である事柄を手に入れることは決してできない。

さらに進んでそれぞれの特殊な在り方を探求するある、
ということは誰でもすぐに考えることである。

さらにいえば、それはゴルフを学問として、あるいは理論として、
研究するといったことに値しない。

そういう知識の寄せ集めの場合には、
目的などをめぐる一般的な理論と、
神経、筋肉といった内容そのものをめぐる、
概念なき側物的な議論とが区別されていないからである。

・・・

ところが、解剖学ではなく、哲学的に考えるとなると、
一般論と各論とのあいだに矛盾が生じるもので、
矛盾があるのがゴルフだと逃げてしまったゴルフ論も多いのだが、
それでは真理を捉えていないことを、自ら証明しているようなもの
となってしまっているのもまた現実である・・・。


となると、あるゴルフ論が同じゴルフを語った他のゴルフ論と、
どういう関係にあるのか、といった議論も、本来の真理追究とは
異質の関心を呼び起こすことになり、肝要な、真理の認識をかえって
くもらせてしまうことにもなりかねない。

真と偽とは対立するものだと固定されてしまうと、
あるゴルフ論については賛成か反対しかなくなります。
そのゴルフ論の体系についても真偽をはっきりさせることにしか
意義を見出せなくなってしまう・・・。

一般的なゴルファーは、
あるゴルフ理論体系とまたある違うゴルフ理論体系を知ったとき、
それらの違いを、真理の発展段階の違いとして捉えることはなく、
違うものはどちらか、一方にしか真理はないものと考えるもの。

言い換えるなら、つぼみがなくなって花となって開いたとき、
つぼみは花によって反駁される、というようなもので、

同様に、花が実になればなれば、花は偽りの存在ということになり、
植物の真理は花から実に移ったことになる。

それぞれの存在は互いに異なるだけでなく、
両立しえないものとして互いに排除しあう関係にあるということ。

しかしそれらを一連の流れとして考えるならば、
つぼみ、花、実、といった三つの存在は、
有機的に統一された一つの存在、構成要素とみなされ、
互いが対立するどころか、どれが不要ということもなく、
みっつそろってはじめて全体の植物というものが説明される。

・・・

ゴルフにおける、あるいはゴルフ論におけるさまざまな矛盾・・・

それはもしかして、
ゴルフ上達の過程で抱える矛盾かもしれないし、
当のゴルファー達が、あるいは論者たちが、
ただ単に、矛盾が全体の中でどの位置にあるのか
位置づけられていないだけなのかもしれない。

この部分、もう少し整理してみようと思います。


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2009年11月25日

ゴルフ論体系どうしが矛盾する時

越谷ゴルフです。

ゴルフ論体系どうしが矛盾する時、多くの論者は、
その矛盾を全体の中に位置づけていないことが通例である。

したがって、
はじめてその矛盾に直面したゴルフ初心者は混乱するのである。

ある程度ゴルフを求道し、自分なりに矛盾を解決してきた者には、
その矛盾を、正反対の表現ではあるが、全く同じ事を述べている
ことに気づくかもしれない。

しかし一般には、その矛盾を概観するものは無責任であり、
矛盾する一方を真とし一方を偽と決め込み、双方を自由に行き来き
させることはしないし、対立して衝突する形のどちらか側に決め込み
どちらにも、本質にせまるための必要不可欠な要素があることを認識
できないでいるのである。

とはいえ、体系の真偽をはっきりさせなければいけない場合もあり、
その要求を満たすことこそ肝心であると思う人もいるかもしれない。

しかし、核心はなによりその目的と結論のうちにかたられるはずだし、
目的と結論は同じ問題を扱った同時代の主張との違いのうちに、
何よりも明確に認識することが出来る。

例をあげるなら、例えば富士山の山頂をめざして歩く場合、
南から登る者にとっては、北へ向かって歩くことが真である。
しかし北側から登る者にとっては、南へ向かうことが真である。

この場合、北へ歩くという行為と、南へ歩くという行為は、
全くもって両者は矛盾していることになっている。
しかしだからといって、双方が双方とも偽ではない。
というわけだ。

この認識は極めて重要。

しかし、そうした認識は単なるはじまりでもあることに気づかず
そこで満足してしてしまう論者も多いことに注意、あるいは自戒
したいものでもある。

現実の認識がすべてであると満足してしまうことは、
それは事柄そのものを遠まわしに回避し、
事柄に熱心に取り組むふりをしていながら、その実、
取り組みを怠っているという詐術に手を染めていることに等しい。

なぜなら、事柄は、
目的のうちではなく、展開過程に汲み尽くされるものであり、
いうなれば結論のみが全てではなく、
結論とその生成過程を合わせたものが、
現実の全体なのだから、

目的それ自体は生命のない一般観念であり、
一方でまた目的を目指す衝動もまた、
現実性を欠いた単なる意欲に過ぎず、

裸の結論としては、衝動、言い換えれば生命を
抜き取られた屍に過ぎないというものである。


・・・

同様に、他のゴルフ論との違いを示すと言う行為も、
実は事柄そのものにかかわっているのではなく、
事柄の境界線上あるいは事柄の外側に身を置いている
ことに近いとも言える。

「違い」とは、事柄の外で起きることあるいは
事柄ではないものをさす言葉であるから、これも、
陥りやすい自己満足でもある。

こんな話を聞くと特にそう思うのです。

同じ練習場で違うインストラクターからレッスンを受けたら、
ゴルフを教えてくれたのではなく、
もう一人のインストラクターの悪口で終始した・・・

そういうゴルフ論、ゴルフ哲学を聞かされる者側にとっては、
まったくとってつまらないのである。
それはなぜなら、そこに内容はなく、事柄の外側にいるわけだから
致し方ないのである。

ではなぜ、そんな状況に陥りやすいのか。

それは、あるゴルフ論体系が他のゴルフ論体系と違うということの、
真偽を語ったり評価するという行為は、そんなに難しくないから。

その行為は、物事に取り組むということよりも、
つねに事柄の外側に向かっていくことであり、
あるいはその知は、
事柄の中にとどまって没頭するというものでもなく、
常になにか別のものにも手を伸ばすというものでもなく、
事柄そのものに身をゆだねる行為でもなく、
自分の枠の範囲内にとどまりつづけていることでもある。

内容と実質について評価するのは易しく、
そうではなく、その内容と実質がどんなものかを捉えることは
難しいものである。

そしてここで述べたのは、もっと難しいのは、
その二つを統一すること。

つまり、内容と実質を表現することである。

・・・
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2009年11月27日

ゴルフから得ようとしているもの

越谷ゴルフです。

社会に出て、ゴルフをまだやった事がない者が
初めてゴルフを始めるということは、
日常生活を抜け出して、教養の分野に一歩踏み出した
そんな感覚を覚えるのは長くゴルフをやってきた者にも
うすうすわかることであろう。

ゴルフのもつイメージには、そういう魅力が溢れている。

そして、はじめてゴルフクラブを握ってボールに向かうとき、
今までその人がゴルフ以外から一般的に自分が経験してきた
常識や、原則といった視点からゴルフに立ち向かう。

また、一度ボールを打ってみたら次に、
それらゴルフを始める以前に習得してきたもの
それを超えた新たな知識、思考を求める。
そしてそれは具体的で、内容豊かで、明晰であることを期待する。

まだ自分の知らない、未知の世界が大きく広がっているのに
気づかされるのである。だからそこに憧れるとも言えるし、
だから教養の分野だとここでは言う。

教養がはじまったばかりの段階では、
充実した日常生活から一歩踏み込んで教養、
つまりゴルフに真剣に取り組むのであるが、

その真剣な取り組みが長く続く、としたらそれを言い換えるなら、
新たな経験を積み重ね、事柄の深層にある概念と、
真剣に取り組んでいるというわけで、

その段階の水準で得た知識、評価、あるいは感動というものは、
日常生活にもどって日常会話の中で披瀝されるものでもある。

・・・

さて、もし真理が明確な形をもって存在されるとしたら、
その形態は体系的で、学問のようなものでしかありえない。

だとすると、
ゴルフ論、ゴルフ哲学を教義し生業とする者の使命は、
その理論あるいは哲学は、学問の形式に近づけることにある
ということを認識しておかなければならない。

哲学の原義は、「知への愛」
しかしただ知に憧れるだけではなく、本物の知に近づくべく、
真剣に取り組もうという者がいるならば、その期待に、
応えねばならない。ゴルフ論を語るものにはその責任がある。

知が学問の形をとるという内向的必然性は、知の性質であり、
その事を十分に説明するとしたら、哲学を叙述してみせるほか
方法はない、というわけだ。

しかし、それとは別に、「いわゆるカタチから入る」という方法、
すなわち外的な必然性からのアプローチというのも一般的で、
むしろこちらのほうが、内向的必然性より多いのも現実。

しかしそれにしても、たとえそれが外的なものであっても、
単なる個人の思いつきや気まぐれ、あるいは個人的なきっかけ
といった意味ではなく、一般的な意味で捉えるとやはり、
それら単なる思いつきや気まぐれをどう体系づけるか
それが重要になり、そこまで高めなければ、
例えばゴルフスイングにおける重要事項の一つである「再現性」
というものはなく、やはり、

ゴルフから得ようとしているものを得られるように、
一般の人を導くとするならば、学問にまで高める必然性は
明白であり、

また明白にするということは、
同時にその目的を実行することにもなるのである。


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2009年12月03日

ゴルフにおける、美しく神聖にして永遠なるもの

越谷ゴルフです。

これまでの考察では、ゴルフにおける真理の本当の姿は
学問の形に求められているのではないかという可能性を
論じてきた。

これは言い換えると、
真理は概念の領域にその存在の場がある、
と主張することでもある。

しかしこれは、ゴルフは概念的なものではなく、
実際にボールを打ち、結果が残るものである、ということと、
矛盾する考えでもあることは十分承知できる。

この矛盾について説明しておくことは、
現在一般的に広まり、流行しているゴルフ論やゴルフ哲学を
もう一段上の領域に引き上げるのに意味のないことではない、
と思われる。

一般的に教義されているゴルフ論やゴルフ哲学によると、
真理とは、直感とか絶対なるものの直接知、というか、
それは宗教というか、存在・・・宗教的な表現をするならば、
神の愛の中心にある存在ではなく、ただ存在そのもの
とでもいうものである。

いや、ゴルフとはゴルフをすること、
つまり現実のゴルフとしてしか存在しないものであるのだが、

だとすると、それをゴルフ哲学敵に表現してみるならば、
概念としての形式とは反対のものが要求されることになる。

絶対的なものは概念によって捉えられるものではなく、
感じられ、直感されるものであり、

絶対的なものの概念ではなく、絶対的なものの感情や直感、
その感情や直感というものを言葉によって明らかに
されなければならない、ということになる。

そのような要求があらわれる理由を、考えてみるならば、
それはゴルフに限らず、人間の活動や存在一般的な広い状況
とのつながりのもとに捉え、ゴルフについて、人間精神が到達した、
現在の段階について、把握しておくことは意義がある。

神とはカタチとして現実に存在するものではなくて概念的なもの、
しかしゴルフは実際に行うもの。

精神は、思考の場の営みで神と一体化できることだとすると、
現実のゴルフとは、現実のものとしての存在でありながら、
その神の次元を超えているということが明らかと言える。

ゴルフとは、素朴な信仰の次元を超え、
ゴルフにおける神とは、内面にも外界にも広く存在するという
確信と満足の次元を超えている、

というわけだ。

ゴルフの精神は、神なき自己反省という反対の領域に達する
のみならず、その領域の次元を超えている。

ゴルフの精神の本質ともいえる、神との共同プレー、
それをを喪失しただけでなく、
その喪失に伴う自らの内容の限界の意識、
神との共同プレー喪失後のカスのような現実から目を背け、
己の境遇のひどさを認める。。。

その非を鳴らす精神が今求められいるというわけだ。

それは己の現在についての知ではなく、
かつて神とともに一体化し共同プレーされて頃に戻れるのか、
それを再現させることが求められているのである。

ゴルフにおける、美しく神聖にして永遠なるもの・・・


ここではその存在としての神との共同プレーについて
少し述べておくことと致します。

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2009年12月04日

感覚的で卑俗でとりとめのないゴルフ

越谷ゴルフです。

神との一体化されたゴルフ・・・
それは閉ざされた神の世界の扉を押し開くことでもなく、
その世界への自覚をもたらすことでもなく、
特殊な思考は全て捨て去り、概念上の区別は押しつぶし、
絶対存在の感情を打ち立てること。。。

洞察を深めるでもなく、宗教心を高めること。

ということになるのだが、前回述べた「美しく神聖なもの」や、
宗教や、愛というものは、しかしいうなれば、
魚をおびき寄せるためのえさに過ぎないと言えなくもない。

概念ではなく、法悦が、つまり絶対感情が、
冷静に進む事柄の必然ではなくたぎりたつ霊感が、
こうしたゴルフにおける神の世界の豊かさを支え、
拡大していく力になるというのである。

・・・

こうした要求に応えるにはまず、
感覚的で卑俗的でとりとめのないゴルフをする者を、
その境遇から引きずり出し、まず天上の神々、
あるいは星等へ目を向けさせるために、
力のこもった、性急で落ち着きのない努力
それがまず行われることになる。

嘆き悲しみのゴルフを行う者に、
天界に広がる多種多様な思考と形象に満たされた、
あるとあらゆるものからの意味の光線を放ち、
それによって地上と天上を結びつけるというべきか、

ゴルファーの視線を地上にとどまらせるだけでなく、
天上へと向かわせ、神々しい世界を垣間見させる。

彼岸の現在ともいうべきもの・・・

精神のまなざしはそうして地上の現実へと向けさせる。

此岸の世界に広がるあいまいで
混乱して矛盾だらけの状態のうちに、
天上界でしか得られないような明晰さを注ぎ込み、
目の前の現実のものに注意を向ける・・・。

それは「経験」であり、
それに価値を認めさせるには少々時間が必要となる。

それにしても、
今求められているゴルフ論やゴルフ哲学は、
それと反対の方向であり、人々の関心が、
あまりにも地上に深く根をおろしているため、
それを天上に向けさせるには、並大抵の苦労ではない。

精神のまずしさは目を覆うばかりで、それは、
砂漠の放浪者が一口の水を求めるように、元気回復のため、
ほんの少しでも神の感情を得られさえすればと、
必死になっている。

そんなものでゴルフから満足が得られるところに、
かえって失われているものの大きさがあらわれると
いうものである。

・・・

それにつけても、なにかをもらえれば満足し、
与えることには出し惜しみするという態度ばかりが
どうしても目に付くのである。


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2009年12月10日

幻想の中で身ごもり、生み出すのは、それもまた幻想。はかない夢に過ぎない。

越谷ゴルフです。

ゴルフをしていることの喜び、感激、
夢中になり、得意顔をし、そして落胆し・・・

それをここではゴルフの神に対する宗教的満足と、
敢えて表現しておくが、そうした感激と混迷をもって、
ゴルフは理屈ではない、と考えるわけにはいかない。

興奮状態、トランス状態をもって高尚とする、
預言者風のおしゃべりは、それこそ
自分こそものごとの中心で深みにふれているという自惚れ。

それは、明晰な世界に軽蔑のまなざしを向け、
概念や必然性にも、日常のゴルフ活動を住拠とする反省にも
あえて近づこうとしない。

が、空虚な広がりがあるように、空虚な深みもあるものだし、
日常的に多面的な展開をしながらそれをまとめる力のない
散漫な、その日その日によって違うゴルフがあるように、

広がりのない純粋な力にとどまるがゆえに、
何の深みもない、無内容な集中力というものもある。

精神の力は外への発現によりその大きさは測られる。
しかしその深さも、精一杯身を投げ出して外への広がりへの
力を持つ限りでの深さでしかない。

同時にこの概念なき神の知が、これぞゴルフ、
わかった!自分こそが絶対存在と一体化し、
真実で神聖なゴルフをおこなっている、と言い張るならば、

そこに隠された事の真相は、知が神と一体化しているどころか
限度やけじめを軽視したがためにむしろ、
行き当たりばったりの内容や、自分勝手な思い込みに、
そのまま甘んじている結果にしかなっていない。

ということである。

宗教的な言い方を続けさせていただくが、
神をめぐる放縦な興奮に身をまかせたゴルファーは、
自己意識に覆いをかけ、知性を放棄していながら、
それによって神の世界に招かれ、
夢の中で神の叡智に預かるものだと思い込んでいる。

彼らが夢を見ている、幻想の中で身ごもり、生み出すのは、
それもまた幻想。はかない夢に過ぎない。

これからの時代、ゴルフが人間の活動である限り、
ゴルフにおいても、精神は、
これまで当たり前とされている現実と観念世界に別れを告げ
いうなれば現在のゴルフ論やゴルフ哲学が抱えている矛盾
それを過去の淵に沈め、変革の作業に取り掛かることに
なるだろう。

精神は常に前進活動を行っているがそれはちょうど、
長く静かな栄養補給により大きく成長した胎児が、
この世に生をうけ新生児として生まれ、最初の一息をする
質的な飛躍に似て、

ゴルフにおける精神のあり方はゆっくりと静かに新しい形態に
成熟している最中とも言える。

以前のゴルフ理論やゴルフ哲学は少しずつ壊れ、
動揺に直面している状況は非常に多い。
その動揺は兆候として示唆されているにすぎないが、

その現体制に無分別や退屈の要素が紛れ込み、
わけのわからない感覚が漠然と広がりを見せるとき、
その違和感が、実は別の世界の到来を告げる前兆。

全体の概観を変えることない緩慢な破壊作用が
あるとき様相を一変させ、稲妻のように、
新しいゴルフの世界の像が打ち立てられるのかもしれない。


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2009年12月29日

登場したばかりのものは概念のみしか整わぬ素朴な存在にすぎない

越谷ゴルフです。

全体の概観を変えることない緩慢な破壊作用が
あるとき様相を一変させ、稲妻のように、
新しいゴルフの世界の像が打ち立てられるのかもしれない。

そしてもし新しいゴルフの世界の像が打ち立てられたとすると、
その新世界は生まれたばかりの新生児と同様、
完全な現実を備えてはいないことだろう。
それは絶対に見落としてはいけない部分で、
登場したばかりのものは概念のみしか整わぬ素朴な存在
にすぎない。

土台ができただけ、あるいは柱が立っただけでは
建物が完成したとは言えないように、
全体の疑念が得られただけでは
全体が得られたというわけではない。

森に、ある力強い一本の大木があるとすると、
それは力強い幹に支えられ、枝が大きく広がり、
葉がうっそうと茂っているものである。
もちろん、その下の見えない部分には、
しっかりと根が張っている。

その大木が実らせる果実を示されただけで、
満足するわけにはいかない。

同様に、新しいゴルフの世界の像が打ち立てられた時は、
はじまったばかりで完成されているというわけではない。

新しいゴルフの世界のはじまりは、
多様な経験や完成や教養といった形式で積み上げられ、
熟成されたものの変革の結果として得られたものであり、
複雑に絡まる精神の道と、同様に複雑な努力と労苦の末、
その結果として生じるものである。

精神の新しいはじまりとは、
縦につらなり、横に広がり、あるいはさらに三次元的に
それが深みや高さを持ち、そうした後に、
自分に還ってきて、しかしそれは決して複雑ではなく、
実は単純な概念となって現れるものであることは、
ゴルフ練習に熱心な人であれば、
一つの技術の習得が同じような過程をたどるので、
すぐに理解していただける部分でもある。

そしてこの単純な全体が現実性を獲得するには、
概念のうちに要素として吸収されたさまざまな形態が、
これまでとは違う、あらたな場で、あるいはレベルで、
あるいはステージといったところで、
ふさわしくあらたに発展を遂げ、
新たな形態を獲得するというものである。


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2010年01月08日

秘伝とは

越谷ゴルフです。

さて、例えばゴルフスイングでハッという気づきがあり
新しいスイング概念が登場したような場合、
その概念は、全体はいまだ単純なカタチをとる、
一般的な土台としてしか存在しない。

頭の中のイメージとしてなんとなくあるのだが、
意識にとってはこれまで体に馴染んでいる
今までのスイングが体を支配していて、
そのように体は動く。

だから、新しく登場した形態には、
内容の展開や分化が浅く、
まだまだ明確な輪郭をもってお互いを区別したり、
スイング全体を秩序立てて展開することができない。

しかし、この展開なくしては、
その新しいスイング概念が広く理論として
世界に理解されることはなく、

この、展開前の段階は、
いわゆる、わかる人にはわかるだけの、
少数の個人にだけ秘伝される、感覚的な財産である。

秘伝だというのは、そのスイング理論がさしあたり、
内面的な概念の中にしか存在しないからであり、
少数の個人に、というのは、その理論に広がりがなく、
その理論が個人的なものとなってしまうからである。

完全に明確な内容を備えたものだけが、
本来なら同時にゴルフスイング理論といわれるものであり、
本当の意味で概念的なものであり、
学習されて万人の所有物となる。

学問としての理論とは、
万人向きに、理解可能な形を備えたとき、
誰でもその道を歩めるようになったとき、
はじめて確立されるものである。

理解されたものとは、よくわかっているもののことであり、
理解できると、さらに理性的な知に向かおうとするのは、
その理論あるいは学問に足を踏み入れた者の、
当然の要求である。

理解とは、純粋に自我の活動であり、
自我の壁に隔てられ外側にある表面意識、学問的知へ、
自我の壁の内側にある潜在意識、言い換えると
感覚や感情や無意識上の記憶といった非学問的意識が
向かうことである。

それにしても始まったばかりの理論や学問、
いわゆる秘伝の段階にあるものは、
細部まで仕上げられてもいなければ
完璧な形式を獲得してもいないので、
そのことが論者によっては非難の対象にする部分である。

しかし、その非難は必ずしも核心を突くものではなく、
反対に非難された側もその理論の細部の展開を要求されても
拒否し認めようとしない、ということも多々あり
おそらくそれは間違っている。

ここに見られる対立は、
一方の側は材料の豊富さとわかりやすさを自慢し、
もう一方はそのわかりやすさを軽蔑したうえで
理性と神性(神秘性)がそのまま現れていることを自慢する。

・・・

秘伝とは、事柄の根拠を示しえない点で、
従来の一般論に敗北し、沈黙させられることが多い。

しかしもしその秘伝が真実であるならば、
その秘伝は沈黙により生き残っていけるものでもあり、
あるいはたえず期待を持たせながらも学問的な理論にまで
展開させられないがゆえに人々から忘れ去られていくものでもある。


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2010年04月28日

形式主義

越谷ゴルフです。

新たなゴルフ理論が生まれ、成長していく過程において、
内容に関してその範囲を大きく拡大していくことになる。

その拡大は、
既に知れ渡り整理されているそれまでの理論を
自分の土俵に引き入れるだけでなく、

とくに特殊なものや珍奇なものについても、これもまた同じく、
手持ちの材料や既に知れ渡っていることを利用して、
すなわち一切が、その新しいゴルフ理論の配下にある、
そういう状況が作り出された時、

一見、そのゴルフ理論が論理的、学問的に
成長したものに思えてしまう場合がある。

特に、その統合の作業に携わった者の気持ちとしては、
思い入れもあることだろう。なのでどうしても、
そう思えても仕方がないのは人情だと思う。

しかし、ここで問うているのは「内容に関して」の成長である。

もう一度ここまでを注意深く読み返していただくと、
すぐにわかるのだが、

内容に関しての成長と、形式を整えるという作業は、
本来しっかりと区別して考えるべきなのではないかと、
思うのだ。

内容の無い、意味の無い、
形式だけ立派に整ったゴルフ理論もかなり多い。

それはつまり、そういう事なのである。

形式だけの理論が原因で、
多くの悩めるゴルファーをさらに悩ませることにつながっている
ように感じられることも多い。

カタチから入ることを否定しているのではないが、
いつまでたっても核心にたどり着くことのできない、
だけれども極めて熱心な求道者が陥っている部分でもある。

真実は、実はシンプルだったりする。

・・・

形式を整えることは重要。
しかし、形式を整えたからといって、
それが優れた新しい理論であるということではない。

ましてや、現在では世の中の情報化が進み、
まったく中身がなくて形式だけ整えて、
旧来知れ渡っているものの名前を変えて、
新理論として登場しているのも多いのだが、

プロモーションが上手な、見かけで目を引くだけの、
ぜんぜん新しくない新理論がどれだけ多いことか…

本来、ゴルフにおいて、あるいはゴルフに限らず、
新しい理論の充実というものは、
そういった形式を仰々しく整えたものではなく、

もっと、内側から湧き出してくる豊かなもので、
自らの力で多種多様な形態をつくりあげていくもの。

単なる形式主義で、素材を変化させただけのものではない。


さらに・・・

ゴルフの理論も、道具の進化にしたがって、
どんどん変化している。

新しい道具の進化をきっかけとして、
新しい理論も生み出されやすい状況に常にあるのは事実。

そういう状況の下で、
ゴルフ理論の変化を唱える者も、もともとは、
既に言い古された、旧来の単なる形式知をうたう理論を否定し、
新しいゆたかな内容を伴った理論を生み出していくものだが、

しかし、しばらくすると皮肉なことに、
新しい道具、新しい道具の使い方、新しい内容の理論でもって、
形式主義を告発し、罵倒していたはずの論者でさえ
気がつけば形式主義に陥っていくことも多いのでは・・・

・・・

ゴルフ理論が、学問的に理論化され体系化されていく、
その過程とは、形式を整えていくことではあるのだが、
それにあたり形式主義というものについて、弊害について、
もう少し認識を深めてもいいのではないか。

特に、影響力のある人にお願いしたい。
おのれの認識力の欠如を無邪気にさらけだすことは、
勘弁していただきたい。

絶対的な現実を認識すること・・・

それが本来の、理論のあるべき姿だと思う。


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2010年08月29日

ゴルフの真実について語られたものを読む場合の注意点

越谷ゴルフです。

各々がゴルフにおける真実(についての私観?)を
語っているのを読むにあたり、
その記述の主語が、「ゴルフとは・・・」となっている場合、
特に気をつけたいことがある。

その記述の内容の当否は、
記述の体系全体をもって判断するしかないが、

真理を巡る一切に関する重要な点は、
真理を「実体」としてではなく、
「主体」としてもとらえ、表現されている場合には、
解釈するにあたり特に注意が必要に思われる。

もう少し噛み砕いて説明すると、
真理を語るにあたり、知らず知らずのうちに、
真理=神 の認識が論者のうちに高まり、
内容がすりかわっていくこともあるということ。

科学的には真理とは絶対的なものであり、
宗教的には神が絶対的なものであるのだが、
宗教において神が語られるとき、
神とは、実体ではなく、主体であることは、
例えばキリスト教における聖書の記述をみても
それは明白であり、

熱心な論者ほど、
その情熱の源が宗教的なものである可能性も高い、
ことも十分ありうるからである。

その論者がもし、
自分がこのゴルフの真理を語ることこそが自分の使命、
と強く感じていればいるほど、
むしろ陥りやすい罠、ともいえる。

なので、内容が宗教的になるにつれ、
それを受け入れようとする側には十分注意が必要である。

・・・

それにしても、
ゴルフの真理を知ることがはたしてシアワセとは限りません。

たとえ、真実ではないとしても、
使命感を強く感じている熱心な論者の言葉であれば、
一般的にはその人の言葉を信じ、
ある意味真実を知らされず騙され続けていたほうが、
シアワセな場合は当然に多いと思われる。

ゴルフを哲学的に受け入れる場合、
何を目的にそうしているのか、
もう一度哲学してみるとともに、

それでももし、真理の追究を目的とするのであれば、
このことを、十分念頭において
おかなければいけないことではある。


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2010年08月31日

現実のゴルフの実体を、真理に昇華させる過程

越谷ゴルフです。

ゴルフの練習をしている時、
特にスイングづくりをしている過程を仰々しく述べるならば、
現実のゴルフの実体を、真理に昇華させる過程
というわけだが、

例えば自分の頭の中に、
イメージとしてスイングの理想があるとする。

その理想はもしかして
悪く言えば単なる思い付き、かもしれないし、
よく言えば、知的直感、かもしれないし、
あるいは、どこからか仕入れてきた、
他人からの受け売りのイメージ、
かもしれない。

しかし、この段階では、
それが仮に結果として真理であったとしても、
真理と呼ぶにはふさわしくないことは想像に難くない。

「結果として真理」
という表現をここでは使ったが、

真理とは、統一された唯一の絶対存在であり、
主体である現実のゴルフと理想である真実のゴルフは
たいていの場合、出発点では互いに相反するもので、
理想と現実にはギャップがあるものなのだが、

真理に昇華されるということは、
この互いに相反する分裂された状態のものが、
統一されるということである。

この過程をここでは、
螺旋階段を登っていくと、
一周したときに同じ場所には立っているようにおもえるが、
実は一段上の段階に立っている、と表現しておく。

・・・

そうした現実のゴルフの実体を、真理に昇華させる過程を経て、
現実として真理を手にした者だけがその意味がわかる、
もう一つの言葉がある。

それは、

「結果として真理」ということはつまり
「結果として現実」

あるいは他の表現をすることもできるだろう。

「形は本質」あるいは「本質は形」

というニュアンスも、
この過程を経たものであれば納得しうる事。

真実は実は単純なものかもしれない。

結果として。。。


未だ相反するものが統一される過程が踏まれていないものは、
たとえそれが文の形で表すと真実と同じであったとしても、
それを真実ということはできない。
いうなれば、真実として扱うのではなく、
一般論として、処するべきものなのだろう。

その落し穴に嵌らないためにあくまで押さえておきたい点は、

「主体」としての現実のゴルフというポジションを、
常に忘れないこと。

この自覚こそが、実は真実への過程なのだろう。

それはちょうど、
生まれたばかりの胎児はまだ人間としての自覚はないが、
理性ある大人になったときは人間としての自覚がある。
といったようなものなのだろう。

理性ある大人になるまでには、
さまざまな葛藤があるものである。


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2010年09月07日

真理の生成過程で、意識が苦労して歩む長い道のりとは

越谷ゴルフです。

もし自分が、
理にかなわない間違ったスイングを
身につけていたとしたら、

正しいゴルフスイングに矯正される時
本来ならば戸惑いや強烈な違和感を
感じるものである。

裏返せば、
違和感を感じない練習というのは、
本来ありえない、ということでもあるのだが、

もし、理にかなわない間違ったスイングを
体が覚えこんでいるにもかかわらず、
何も違和感を感じない練習を行っている、
としたら、

その状態を、
「下手を固めている」
というのだろう。

一般的には
違和感のない、気持ちよくナイスショットが続く練習こそ
いい練習であるように誤解されていることではあるが、
少し考えてみると、その考え自体が既に真理とは程遠い、
ということに気付くだろう。

そう。

まずは練習に対する考え方、
認識をあらためる必要があるゴルファーが一般的であり、
非常に多いということでもある。

一般的なゴルファーにおいては、
練習すれば上手くなるというものではない。
練習にたいする認識をまず換える必要がある。

ということでもある。

実は、この段階までは、まだ、
苦労しているようでも実はまだ、
その苦労してすすんでいくであろう道のりの、
スタートラインにすら立っていないのである。

・・・

体が理にかなわないスイングを覚えているにも拘らず、
違和感を感じないとしたら、

その状態における感覚が、
体と一致しているということなのだから、

つまりは感覚が(あるいは頭の中のスイングイメージが)
そもそも理にかなっていないということで、

それは、その人においては一見真理であるかもしれないが、
普遍的な真理とは実は程遠いものである。

それがたまたま他人から知識を得たり、
たまたま調子が悪くて体に力が入らず
普段と違うスイングになってしまったときなどに、
「これは!?」と気付くものがあったとしたら、

その一見真理と思えていたものが実は、
本当の真理とは違うものであることを認識する。

一般的には、練習に対する認識が変わることよりも
ここがはじまりである。

偶然の第一歩というわけなのだが・・・

ここから、意識が苦労して歩む長い道のりが始まり、
真理の生成過程の第一歩を踏み出す経験をする。

その隠されていた真実は、
何かを足した(例えば足がもう一本生えて安定した)
といった外付けのものではなく、

既に自分の内面に潜在的にあった、
自分がそれまで気付かなかった方法とか感覚である。

潜在的に自分の中にある意識を引き出すことが、
つまりは、真理の生成過程ということなのだが、

おさらいすると、
自分ではないと思っていたもの(違和感を感じていたもの)が
実は自分であることに認識が変わっていく過程、

相反する矛盾を克服し統一していく過程を、
真理を生成する過程という、

何に意識が苦労するのかというと、
つまりは矛盾や違和感、ということである。

従来の自分の方法や考え方の枠を超えて、
新しい方法に挑戦し、認識を変えていかなければならない。

しかし、本来人間には防衛本能というものがあり、
今までと違うものに触れたときは、まず自分の身を守るために
そこに壁をつくる(この壁は目に見えない)のである。

練習し、
本来の自分の潜在的なものを引き出し
自分のものにするためには、

防衛本能により自分の中につくりだされた壁、
この自分でありながら自分と向き合う状態

この精神現象を、長い道のりというのである。


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