そもそもゴルフ論というものは・・・
越谷ゴルフです。
世の中ではさまざまな人がさまざまなゴルフ論を唱え、
ゴルフ論というものはゴルファーの数だけ存在します。
大まかに言うと、メンタル面から入るもの、
それから知性面から入るもの、そしてフィジカル面から入るもの。
それぞれのアプローチから真理を追究しようと
試みられているのですが、その姿はまさに哲学・・・。
ゴルフという同じ対象を扱っているにもかかわらず、
それぞれのゴルフ論において、論者の狙いとする目的がどこにあり、
また、同時代やそれ以前のゴルフ論にどういう影響を受け、
どう新境地を開拓したかを整理してみることは、有効なこと
かもしれないし、もしかするとゴルフ論の性質上、
不適切なもので不都合なものかもしれない。
各論者が、ゴルフ論の変遷についてその歴史に照らし合わせて
おのれの傾向や立場、一般的内容と結論を提示したり、
多くの人が口にする真理論や真理説を結び合わせたり、
そういうことをすることも多いが、
それを哲学的見地からすると、
そんなやり方でもって絶対真理の表現であると考えるには
非常に安易すぎるのである。
それでいて一方、哲学的考察を行うとすれば、
特殊な事例を内に含む一般論として語られるものだから、
目的や最終結論のうちに事柄そのものが完全無欠な形で
表現されるはずで、途中の展開過程はあまり重要でない、
といった幻想に陥りやすいのもまた現実である。
・・・
例えばゴルフを哲学ではなく、解剖学からアプローチした場合は、
体の各部分を生命なきものとして知っただけでは現実のゴルフ
その内容である事柄を手に入れることは決してできない。
さらに進んでそれぞれの特殊な在り方を探求するある、
ということは誰でもすぐに考えることである。
さらにいえば、それはゴルフを学問として、あるいは理論として、
研究するといったことに値しない。
そういう知識の寄せ集めの場合には、
目的などをめぐる一般的な理論と、
神経、筋肉といった内容そのものをめぐる、
概念なき側物的な議論とが区別されていないからである。
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ところが、解剖学ではなく、哲学的に考えるとなると、
一般論と各論とのあいだに矛盾が生じるもので、
矛盾があるのがゴルフだと逃げてしまったゴルフ論も多いのだが、
それでは真理を捉えていないことを、自ら証明しているようなもの
となってしまっているのもまた現実である・・・。
となると、あるゴルフ論が同じゴルフを語った他のゴルフ論と、
どういう関係にあるのか、といった議論も、本来の真理追究とは
異質の関心を呼び起こすことになり、肝要な、真理の認識をかえって
くもらせてしまうことにもなりかねない。
真と偽とは対立するものだと固定されてしまうと、
あるゴルフ論については賛成か反対しかなくなります。
そのゴルフ論の体系についても真偽をはっきりさせることにしか
意義を見出せなくなってしまう・・・。
一般的なゴルファーは、
あるゴルフ理論体系とまたある違うゴルフ理論体系を知ったとき、
それらの違いを、真理の発展段階の違いとして捉えることはなく、
違うものはどちらか、一方にしか真理はないものと考えるもの。
言い換えるなら、つぼみがなくなって花となって開いたとき、
つぼみは花によって反駁される、というようなもので、
同様に、花が実になればなれば、花は偽りの存在ということになり、
植物の真理は花から実に移ったことになる。
それぞれの存在は互いに異なるだけでなく、
両立しえないものとして互いに排除しあう関係にあるということ。
しかしそれらを一連の流れとして考えるならば、
つぼみ、花、実、といった三つの存在は、
有機的に統一された一つの存在、構成要素とみなされ、
互いが対立するどころか、どれが不要ということもなく、
みっつそろってはじめて全体の植物というものが説明される。
・・・
ゴルフにおける、あるいはゴルフ論におけるさまざまな矛盾・・・
それはもしかして、
ゴルフ上達の過程で抱える矛盾かもしれないし、
当のゴルファー達が、あるいは論者たちが、
ただ単に、矛盾が全体の中でどの位置にあるのか
位置づけられていないだけなのかもしれない。
この部分、もう少し整理してみようと思います。
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